つくられる個性:東京芸術大学と受験産業の美術教育

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3章 美術予備校と学生

前章で筆者が提出した仮説は、東京芸大が石膏デッサンをはじめとするアカデミズム教育を予備校に分担させることで、自らを自由で創造的な教育機関であると演出しているというものであった。だが、ここで注目すべき問題は、東京芸大に入学する前の段階で、受験生は高度に専門的な技術を習得する必要があるということである。従って、美術作品および美術家の形成には、東京芸大や私立美大のみならず、美術予備校が積極的に関与しているということ、換言するならば、美術予備校が日本における美術の生成を促しているという見方が可能なのではないか。従って、美術教育における「創造性」の教育を考察するためには、予備校においてどのような教育がなされているのかを知る必要がある*1


1節 どばた調と新美調

1960年代から1980年代にかけて、すいどーばた美術学院と新宿美術学院が受験産業の覇権を争っていた時代は、予備校ごとに学生の描く絵に一定の傾向があったことが知られている。管見の限りでは、その最も早い例が1960年代に登場した「どばた調」である。これに関する唯一の記事が『藝術新潮』1987年10月号の以下の行である。

「ひところ、『どばた調』といういい方が芸大関係者の口によくのぼった。『どばた調』とは、すいどーばた美術学院出身の学生たちの描く絵に一様に似た傾向があり、そうした学生が大量に芸大に入ったことから、ある種、予備校教育の弊害を象徴するものとして語られたのである。個性が重んじられるべき芸術教育に、個人の絵ならぬ『予備校の絵』が幅をきかせたのだから、事は重大である。」*2

すいどーばた美術学院は、1960年の32名を皮切りに1978年まで毎年30名前後の受験生を芸大油画専攻に合格させている。「ひところ」とは恐らくこの期間を指す。また、その作風については、『アトリエ』1966年1月号で、芸大の助手だった小松崎邦雄が「最近の木炭デッサンの傾向」としてマルス胸像のデッサン(図版15参照)を挙げている。おそらくこれらが「どばた調」に該当するデッサンであると思われるが、横に並べた1950年に小松崎自身が描いた石膏デッサン(図版16参照)と比較するとその違いは明らかである。

図版15 : マルス胸像のデッサン。『石膏デッサン実技のポイント』アトリエ467号 (1966. 1)、21ページ。
図版16 : マルス胸像のデッサン。『石膏デッサン実技のポイント』アトリエ467号 (1966. 1)、22ページ。

図版15のデッサンは、実際の石膏像に形は忠実に描かれているが、木炭の後が装飾的にわざと残されており、実態感に乏しい。また、恐らく逆行の位置から描かれているが、光の当たり方や反射光の調子が不自然である。小松崎はこうしたデッサンを「知識豊富な最近の人の表現」*3であり「頭で作られたような感じで残念」*4と酷評している。ここで小松崎がいわんとしているのは、学生が石膏像を見て描いているのではなく、既に記憶の中にある石膏像を描いているということである。

この「どばた調」について、江頭、中川を含む複数の人物にインタビューをしたが、いずれもそうした描き方の存在は認めたものの、その技法について明確な返答は得られなかった。従ってこれらの図版が「どばた調」かどうかは断定できないが、少なくとも1960年代から一定の制作パターンが流行していたことは明らかである。

もう一つ、1980年代に流行した様式に、「新美調」が存在する(図版17、18参照)。

図版17 : 新宿美術学院の広告。『美術手帖』30巻439号 (1978. 10) より。
図版18 : 新宿美術学院の広告。『美術手帖』32巻466号 (1980. 6) より。

こちらの方は筆者がインタビューした者の中にも良く記憶しているものが多く、雑誌広告などからその実態がつかみやすい。「新美調」の特徴は、画面の中で強く描く所と白く残す部分の差を際だたせ、明暗を強調することで、画面が輝くような効果を生み出すところにある。また、この効果を際だたせるために、木炭デッサンにおいても鉛筆を多用している*5。これについては、筆者の「新美調とは何か」という質問に対して、中川は以下の回答を示している。

「どばた調ってのは、モチーフが何でも紙を木炭でガリガリ擦って、画面を真っ黒にして、彫刻みたいに形を刻むものでしょう。…そういうのじゃなくて、その頃は空間感を出すっていうのをうるさく言っていたから。その延長線上だよね。それと日本画とデザインは試験では鉛筆を使うわけよ。それで木炭と鉛筆を併用したっていうのはそういう伝統のなかから生まれている。もちろん油絵科も鉛筆デッサンすごくやらせた。だからそこで木炭と鉛筆が自然と融合した。」
(インタビュー:中川圭一郎、元予備校講師)

また、「新美調」については、中村政人も1995年の『美術手帖』以下のように言及している。

「特徴はそれまでの木炭一本で描いていた黒く重い感じのもの(おそらくは「どばた調」を指す。筆者註)に対して、白黒の対比がシャープな『白いデッサン』である。…短時間で効率よくポイントを押さえ強く描く『きわ攻め』の方法論の極みである。モノの実体は描かず、そのアウトライン、いわゆる「きわ」をハッチングで攻めて描く。ハッチングとは斜めの線を均一に引き詰め、グレーのトーンを描くことで、腱鞘炎になりそうなスピードでハッチングしている姿は、なにかにとりつかれたようである。」*6

中川が「鉛筆デッサンもすごくやらせた」と語っているように、「新美調」とは予備校の講師によって作られた技法である。中川や中村が「重く黒いデッサン」との対比で「新美調」を説明していることから、新宿美術学院が新しい様式をつくることですいどーばたや他の予備校から差別化を図ろうとしていたことが分かる。おそらくは「どばた調」の流行に辟易していた東京芸大は、新しいスタイルである「新美調」を歓迎した。新宿美術学院は開校後急速に合格者数を増やし、1979年には油画専攻の合格者数28名を記録し、すいどーばた美術学院の21名に大きく差を付けている。

「どばた調」や「新美調」の美的評価については本論では扱わないが、こうした様式の成立は、美術教育がある一定のパターンの習得へと方向づけられていたという点で重要な意味を持つ。久保が主張していた写実技術の習得とは、対象を出来る限り冷静に観察して、それを木炭によって白と黒の明暗階調に変換する技術であった。しかし、実際には、室越が言うように、「どの予備校でもうまく描く為のセオリーが確立されていて、だれもが効率よく上手くなってゆくようになって」*7おり、それぞれの石膏像ごとに効率的な描き方が開発されていたため、入学試験での合否はこの「セオリー」の習熟度に懸かっていた。だからこそ雑誌メディアは受験勉強の機械化を嘆き、受験生の無個性ぶりを批判したのである。また、野見山が石膏像を廃止することで学生を救済できるのではないかと考えた理由もここにある。


2節 1980年代の東京芸大

1980年代の『美術手帖』の予備校広告を見ると、他予備校でも「新美調」の描き方が普及していたことが分かる(図版13参照)。

図13 : 河合塾美術研究所の広告。『美術手帖』第38巻第558号 (1986. 3) より。

従って、1980年代の半ばまでは、ある一定の描き方が受験産業に行き渡り、学生個々の作品に大きな差異は生じなかったと考えられる。しかし、東京芸大が1970年代に入試改革を行ったことで、受験生の絵にも変化が現れる。

入試改革前後前後の東京芸大の人事を見ると、戦後を支えてきた教員は相次いで退陣し、1983年には榎倉康二が助教授に昇格し、1987年には工藤哲巳が教授に就任している。榎倉は、日本の現代美術史上最も重要な運動といわれる「もの派」*8に属する作家であり、彼の研究室からは、宮島達男・川俣正・保科豊巳など、1980年代から日本の現代美術を代表する美術家が巣立っている*9。また、工藤は1950年代から「反芸術」などの前衛運動に携わり、1962年以降はパリを拠点に国際舞台で活躍してきた芸術家である。彼ら2人は共に東京芸大油画専攻の卒業生であるが、その作品はおよそ油絵という範疇に収まるものではない。

こうした人物を機構に迎え入れる主な理由として、美術批評家たちによって戦後美術史の整備が進んでいたという点が指摘される。これら前衛美術家が東京芸大に入った時期は、針生一郎の『戦後美術盛衰史』(1979年)や千葉成夫の『現代美術逸脱史:1945〜1985』(1986年)が出版された時期とほぼ一致する。それらに共通した特徴として、いずれも前衛画廊あるいは国際的なアートフェアで活躍した美術家を中心に記述しており、保守的な芸術家と前衛芸術家の二項対立で美術史を論じている点が指摘される。また両著とも権力の中枢たる東京芸大には全く言及していない。こうした「前衛優先」の論調はこの二冊に限ったことではなく、『美術手帖』を中心とするメディアは海外の美術と同様にこれら前衛美術家たちを取り上げ、同じ分脈で語ることで、彼らが国際的な美術家として流通しているという印象を読者に与えていた。しかし、前衛美術家が(たとえその多くが東京芸大の卒業生だとしても)戦後の「正史」に置かれるということは、古典的なデッサン教育に拘泥する東京芸大が美術史の言説から切り捨てられるということを意味していた。

同様の変化は東京芸大の学生にも起こっていた。1982年に行われた学制審議会の答申では、「絵画専攻学生においても、現在新しい環境・空間造形、素材そのものの性格を主題とする制作、形体・色彩や時間・音響を綜合する映像作品、ビデオ、写真などを表現手段とする制作の研究も多く行われているが、これらに対応する設備は不足し、やむを得ず廊下や狭い校庭で制作している有様で非常に能率が悪く、かつ、危険な状態にある」*10として、東京芸大は第二キャンパスの設置を申請している*11。1982年に入学した宮島達男のように、一枚も油絵を描かずに卒業する学生が登場するなど、この頃には「油絵具」という素材にこだわらない現代美術の波が東京芸大の内部にも浸透していたことが推測される。こうした外的・内的な変化をうけて、東京芸大は自らを現代的で創造的な教育機関であると内外に示す必要に迫られていた。現代美術家が雇用されたのはそのためであると考えられ、その結果、東京芸大の油画専攻は、その名称にも関わらず、学生の表現手段を全く問わない「現代美術科」へと変貌していった。1980年代の油画専攻には現在日本を代表する美術家である小沢剛・曽根裕・中村政人らが在籍していたが、いずれも立体作品やインスタレーション作品など、油絵とはほど遠い作品を作っている。

こうした学内の変化を受けて、野見山による入試改革以降、入学試験の内容はよりいっそう多様化していった。1980年以降の油画専攻の入試問題は、例えば次のようなものである。

1983年二次試験

  • 「素描2(8時間、木炭紙)長さ4m、幅1m、深さ0.4mの溝と人物を組み合わせて描きなさい。雑誌や持参したデッサンなどを参考にして描いてはいけない。イーゼル移動不可。」

1986年二次試験

  • 「油画(12時間、F15号)自由に絵を描きなさい。美術学部のどこでも構わない。身の回りのものを描いても可。屋外でも屋内でも可。」

1993年一次試験

  • 「素描1(鉛筆、4時間、46×36cm画用紙)『一つの球体と、それが存在する状態をイメージして描きなさい』」*12

1980年代後半の各予備校の芸大合格者数を調べると、かつての盟主であったすいどーばた美術学院と新宿美術学院は共に合格者数を減らし、相対的にその他の予備校、特に代々木ゼミナール造形学校、立川美術学院、河合塾美術研究所、彩光舎美術研究所などが業績を伸ばしている。1980年代の東京芸大の入試の印象を、江頭は次のように語っている。

「予備校に通わなくても受験出来るような出題にしようという傾向はあったんだけど、考えれば考えるほど難しい出題になっていった傾向はある。もうひとつは、ある予備校に偏ってしまうのはよくないということで、なるべく偏らない取り方をするようにした。似た傾向のがどうしても出るから、その中からは一点か二点からしか採らない」
(インタビュー:江頭晴雄、専門学校教員、元予備校講師)

こうした東京芸大の変化を象徴する事件が、1981年に朝日新聞が報道した「入試問題漏洩事件」である。4月10日付の朝日新聞夕刊に、「東京芸大の試験問題が試験前日に予備校に漏洩していた」という記事が掲載されたのだ。この事件について、当時美術学部長であった清家清は、朝日新聞のインタビューに次のように答えている。

「大学は厳戒態勢をとって漏えいを防止しているが、これは試験の公正さを保つためだ。事前に出題内容を知っても成績に関係ないというので漏らすとしたら、試験の性格をはき違えている。」*13
(強調筆者)

もし入学試験が正確さを競うものならば、事前に出題内容を知ることは大きな強みになるはずだ。これらのことから推測されるのは、1980年前後を境に、東京芸大の入学試験の採点基準が、かつてのデッサン教育の中心課題だった「正確な再現」から、表現の多様性へ、別のいい方をすれば「個性」や「創造性」へと変化していったということだ。そのために東京芸大が「偏らないとり方」をしているとすれば、予備校は従来の「どばた調」や「新美調」のように、ある一定の描き方を学生に指導するわけにはいかなくなる。東京芸大の要求に対して、予備校はどのように反応したのだろうか。


3節 予備校の教育

現在の予備校の教育については、筆者が予備校の講師および大学の学生に対して行った一連のインタビューを元に検証する。まず始めに、一般的な予備校の授業がどのように進行するのかを説明する。

インタビューの過程で明らかになったことだが、予備校の授業は、学校毎に若干の差はあれ、その多くが同じ方法を採用している。東京芸大の入試に合わせて年間カリキュラムは4月に始まり3月に終わるように組んであり、いつ何を描くかは完全に予備校のコントロール化にある。指導は授業中に教師が個別的に生徒の作品を批評する他、各課題の最後には生徒作品を全て棚に並べて講評会を行い、一枚一枚の作品に改善点を指摘する。予備校によっては講評会よりも個別面接を行うところもあり、その場合は授業中に生徒を講師室に呼び出して一対一で指導を行う。

年間を通じてのカリキュラムは各予備校のパンフレットなどに記載があり、例えばすいどーばた美術学院の『入学案内』2003年度版を見ると、一学期は「基礎的な描写力をつけるトレーニング・入試の現状と自分の実力をしっかり把握する」、二学期は「志望校を絞り込み入試対策をたてる・短期間で描ききる集中力と表現力をつける」、そして入試直前の三学期は各志望校のコースに分かれ「実践的カリキュラムで合格可能な実力をつける」とある*14。また、新宿美術学院の『入学案内』1998年度版には、一学期に「石膏デッサン、静物デッサン、人物デッサンなどの素描を主体とした正確な観察力と描写力の養成」を行い、二学期に「表現の幅を広げ」、そして「この数年の優れた参考作品、各美大のデータ、画集、スライド、ビデオ等の視覚的な授業で絵画の歴史や世界観を分析し、理解を進める」とある。そして三学期にはやはり「武蔵野美大直前対策」「東京芸大直前対策」などの大学別コースに分かれることになっている*15

予備校毎に多少の表現の差はあるが、少なくとも東京の大手予備校では、一学期に石膏像を中心としたデッサンの訓練を行うので、実際に油絵の具を使って絵を描かせるのは夏以降である。夏から秋にかけて講師は各生徒の個性や特徴を見極め、その特徴を伸ばすような指導を行う。冬になると、翌年の2月から始まる美術大学の入試に合わせて、各大学の傾向に合わせた対策を行う。とくに私立の多摩美術大学、武蔵野美術大学などは受かりやすい絵に一定の傾向があると考えられており、都内某予備校で4浪した後に2002年に地方の某私立大学に合格した木元正美(仮称)の言葉を借りれば、年が明ける頃には絵が「大学の絵」に染まる*16。各人の個性を伸ばす教育という二学期の方針と矛盾しているのだが、予備校の講師は、生徒を大学に入れるのが使命なのだからやらないといけないと言う。都内某予備校から2001年に東京芸大に合格し、茨城県の某予備校で講師をしていた綿貫健(仮称)は「知らないと受からないと思う」*17とまで語っていた。一方、東京芸大の傾向について質問すると、多くの講師が、東京芸大は定員が55人だったら、55通りの異なる種類の絵を採りたがっていると語っており、そのための対策として予備校では学生の絵がお互いに似ない工夫を採っているという。従って、夏から秋にかけて行う「個性を伸ばす」教育は、芸大対策のためであると考えられる。以上が美術予備校の授業の概略である。次に、筆者が予備校の講師、および学生に対して行ったインタビューを元に、指導がどのように行われているかの個別的なケースを分析する。

筆者は都内A予備校の講師である土井翔(仮称)に対してインタビューを行うため、2003年5月にA予備校を訪問した*18。筆者の応対をしてくれた土井は、この予備校のカリキュラムについて「この間まではずっと石膏デッサンをやっていた。基本的に一学期はデッサンの勉強で、6月に一度油彩画をやり、それからだんだんと油彩画に移行していく」と説明した。筆者が「入試に石膏像がほとんど出ないにも関らずどうして予備校では石膏像を描かせるのか」と質問すると、「それでも石膏を使うのは、まず一つには単色で描きやすいこと。画面の構成や木炭の使い方など、美術の文法を学ぶのには最適なモチーフであること。教える方もこれを使って学んできたので、先生としても自分で手本を示すことができるので一番手頃」などを理由に挙げた。土井に対するインタビューはこうしたやりとりの後に行われた。筆者はA予備校のカリキュラム編成、および土井の発言から、予備校の講師がかなり積極的に学生の絵の方向を決めているのではないか、という印象を抱き、質問は講師の主体的関与に集中している。

筆者「いまはある程度(大学の)傾向を調べているわけですよね。」
土井「僕等は調べるけど、傾向を直接学生に話したりはしないです。それは内々で知っていればいいだろう。あとは受験とはいえ、一応絵に携わる時期。意外と予備校の時期って大きいから、まず本人に会って、本人のいい所を見出す。最初に「大学はこうだ」って言っちゃうと、それしか目指さないから、そういう事はあえて言わない。」
筆者「学生の個性が出始めるのはどの位の時期になるんですか。」
土井「僕等のイメージとしては、一学期が基礎的な事だとしたら、二学期は応用編で、いろんなものを手探りしていく。で、三学期はそこまで培ったものをまとめていく。」
筆者「応用の時期にいろいろやらせるんですか。」
土井「どういうのが描きたいかって探らせたり。模索する時期になります。カリキュラム的には油絵になればかなり自由にさせているので、そういう影響もあるんだろうけど。二学期以降は完全に一対一で(面接)やるので、全体講評はほとんどやらないです。講評することで全体が似てきてしまうので。」
(中略)
筆者「今のカリキュラムは、最初のうちは石膏。」
土井「石膏ですね。6月半ばあたりに油彩を入れるけど、それは夏の講習会に向けてちょっとやりましょうっていう感じです。2学期は、カリキュラムの工夫はそんなにしないです。個別に画集を見せたり、写真を撮らせてきたりとか。本当に一人一人違うんですよ。カリキュラムとしては、そんなに凝ったことはしないです。三学期は入試に合わせて実践。」
筆者「パンフレットにはどんな絵を載せるとかあるんですか。」
土井「参作(合格者参考作品の略。筆者註)は、学生には極力見せないようにしています。見せるとみんなそれに走っちゃうんですよ。例えばたくさん受かった年の参作があると、それに憧れてみんなそれを真似ちゃう。そうすると合格率が落ちるんですよ。本人発の絵じゃなくなるし。実力がどうじゃなくて、流行ることが問題で。大学は55通りの絵をとりたいわけだから、大きな予備校になればなるほど、内々の戦いになる。」
筆者「じゃあ、一人一人に違う絵を描かせることは。」
土井「それができたら楽ですけどね。僕はいま43名の学生を抱えているので、そうなると40数通りの絵を提示出来ないといけないので、でもそれは無理なんです。なのでまずは個人発を見極めて、そこを伸ばす方が結果的にバリエーションが出る。」
(インタビュー:土井翔、予備校講師)

土井のインタビューから分かるのは、受験生には前年度合格者の作品に「憧れて」それを「真似」る傾向があり、予備校の仕事はそうした傾向を是正することだと考えている点である。これは受験生が大学に合格するために予備校に来ているのであり、自分の個性を見出そうとしているわけではないことを表している。また、土井の「本人のいい所を見出す」という言葉には「個性」や「創造性」といった言葉と同じ響きがあるが、そのために画集を「見せ」たり、写真を「撮らせ」るなど、講師の積極的な方向付けが行われていることを示唆しており、筆者の観察を裏付けている。

個性を伸ばすための手段として、より積極的な方法を用いている予備校もある。都内某予備校に通っていた綿貫によると、彼の通っていた予備校では、意識的に生徒間の繋がりを分断している。試験の直前になると、教室を白いカーテンでいくつもの小部屋に区切ることで、学生がお互いの作品を見ることが出来ないようにしていたという。

綿貫「講評の他に面接の時間があって、面接の時間でみんな画集を見せられたり、カラーコピーを取ったりして、絵作りをする。二学期の頭位からクラス分けが発表されて、さらに教室とかのクラス分けがあるから、夏明けぐらいに、二人先生が一教室にいて、どっちの先生につくかが発表される。うちのクラスは片方の先生の話しを聞いちゃいけないし、他のクラスの人に先生の事は話しをするな、とか。何故かっていうと、具体的に絵画の良さはいくつもあるから、僕が責任取るから自分の理念以外を信じないで欲しいって言うの。理屈としては合っているんだけど、生徒としては感情的に馴染めない。すごく戸惑う。」
筆者「情報が一つからしか入ってこないんじゃない。」
綿貫「でも、見ててプロだから、個々の生徒に必要な情報を与えたりとか、それはすごく上手い。反発もするんだけど、授業の力に生徒自身が負けちゃうから、なにも言うことができない。文句言いたい人は他の予備校に行けばいい、お前がいた予備校に戻れって。」
筆者「話の中で絵作りっていう言葉が出てきたけど、どういうこと?」
綿貫「例えば絵の具を面白くいじりこむのもそうだし、質感をいじるのもそうだし、面白い世界観を自分の中に出すのもそうだし、特に顕著なのは、画集とか、既存のイメージを与えこんだりとか、それをミックスさせたりとか、そういうこともある」
(インタビュー:綿貫健、東京芸術大学油画専攻三年、元予備校講師)

この予備校でも、やはり最初に木炭デッサンで学生に基本的な技術を訓練し、その後に学生に他の作家の画集を見せることで、予備校が学生の個性作りに主体的に関与している。また、渡貫が言及した「絵の具」や「質感」を変えることで差別化を図るという方法については、例えば東京武蔵野美術学院の『入学案内』に詳しい技法が紹介されている(図版19参照)。

図版19 : 東京武蔵野美術学院『入学案内』(1999年)、24-27ページ。

ここでは、学生に「油絵科入試の現状は、その出題内容が示す通り、単に基礎力やうまさだけを競うのではなく、受験生個々の顔(世界観)が見えてくる表現を強く求めています」と呼びかけ、「白亜粉」「卵殻」「合成樹脂」等、油絵具以外の素材を用いることを勧めている*19

この「絵作り」については、他にも多くの学生が指摘していた。都内某予備校で3浪し、2002年に関西の私立大学に合格した佐藤千恵(仮称)は、自らが通っていた予備校での授業を次のように語っている。

筆者「入試対策はどうしてた?」
佐藤「多浪には何にも言わない。受かりそうな現役とかには結構熱を入れてた。一対一で。『ここはこういう色で』って。先生が具体的に言ってきて、『これくらいの筆圧で、厚さで、こういう質にもっていったらいいんじゃないか』って。手取り足取り。だから、例えば自画像だったら、最初『髪の毛はマットな黒にで塗ろう』って言ったの。塗るのも塗りがきれいな方法で、芯をいっぱい出して寝そべらせて。そういう塗りの練習もやらなきゃいけない。服は粉を作っておいて、ティッシュを丸めてぽんぽんって。ほっぺたはちょっと暗くして調子つけておいて、小鼻を決めるだけでできたでしょって。次は目で、目はみずみずしい質感がでればでるほど大学は好きだから、みずみずしくして。」
筆者「構図とかも決めるの?」
佐藤「決める。」
筆者「顔はこの辺とか?」
佐藤「どこまでも決める。縦構図だったらこう、横構図だったらこう。モチーフが渡されたらここに入れる、もしそれが図版だったら、ここらへんに図版を入れて、こういう要素はここに使おうとか。そういうところまで、丁寧に指導される。一番問題なのは、それしかなくなっちゃって、いざ試験であわてふためいて、やらかしちゃうのがダメな原因。」
(インタビュー:佐藤千恵、某私立大学文学部二年)

学生のインタビューに共通して見られた見解は、第一に、予備校の教育は講師から与えられる「個性」であるということ、第二に、それを習得するためにいくつかの描き方のパターンを身に付けておかなければならないということ、そして第三に、学生たちが一様に予備校の教育に批判的な眼差しを向けているということだ。

「個性の植え込み」によって作られている作品は、第二章でも触れた「誌上ギャラリー」や、各予備校が発行する『入学案内』などのパンフレットに掲載されている優秀作品の写真を通じて知ることが出来る(図版20、21参照)。

図版20 : すいどーばた美術学院『入学案内』(1998年)、9ページ。
図版21 : 新宿美術学院『入学案内』(1998年)、6ページ。

これらを見る限り、入試に合わせた2日程度の短い時間で描いているとは思えない高い完成度を示しており、予備校による「個性の植え込み」が事実上高い効果をあげている事が分かる。これら「受験絵画」が高く評価されるか否かは、つまり、受験生に高い評価を与えるか否かは、作品に表れた、受験生に内在する才能ではなく、美術予備校の講師による教え込みによって作製された外在的な技術に起因すると言えよう。学生たちが予備校の教育を否定するということは、彼らが理想の美術家像を仮定しており、それと予備校での自らの姿との間に齟齬が存在するという事の証左であり、彼らの声の裏に「自律的創造者」たらんとする意志を読み取るのは容易なことである。


4節 まとめ

1974年の石膏デッサン廃止以降、東京芸大が目指してきたものは、技術偏重の入学試験を廃止し、受験生の自由な創造性を審査しようというものであった。そのために東京芸大は毎年の入試問題を変更してきたのだが、それは最終的に予備校による創造的な絵画のパターン化を招く結果となった。むしろ、予備校の入試対策の裏をかくために「支給されたトレーシングペーパーと私物を触れさせるようにして足下に置き描きなさい」(1987年一次試験)などの奇抜な出題を続ける芸大の姿勢は、予備校の入試対策を複雑化させ、予備校に通わずには芸大に合格できないという風潮を助長したとも解釈できる。事実、筆者が調べ得た限りでも、1980年代の半ばから、東京芸大の合格者は東京及びその近郊の主要予備校によってほぼ独占されてきた。

結果的に、高倍率な入学試験を境として、美術予備校と東京芸大は、「徹底指導による技術力の植え込み」と「学生の自由な創作活動」という、教育理念の棲み分けを行うこととなった。芸大生の初期段階の技術力を養成しているのは美術予備校であるという現状を鑑みると、日本における美術教育を語る上で美術予備校の存在を無視することはできない。これまで美術予備校の存在が語られてこなかったことは奇妙に思われる。

この問題を検証するため、次章では、別個の組織として機能していると考えられている東京芸大と美術予備校との、人的な繋がりを分析し、また芸大受験産業に関わる人々が、芸大受験に対してどのような見解を抱いているかを検討する。これにより、芸大受験産業の複雑な在り方がいっそう明るみになるであろう。

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脚注

*1

なお、本章では、予備校及び個人の情報を保護するため、登場するインタビュイーの多くは、出身予備校名を伏せてある。

*2

『藝術新潮』第38巻第10号 (1987. 10)、56頁。

*3

「石膏デッサン実技のポイント」第 467号 (1966. 1)、21頁。

*4

前掲書、13頁。

*5

これについては1973年に東京芸大の試験が「今回より油画専攻第二試験の「素描」の用具は木炭、鉛筆、コンテ(黒)の自由選択(併用も可)」と改訂されたことも関係している。

*6

中村 (1995. 5)、37-38頁。

*7

室越、前掲書。

*8

「もの派」の中心人物であった関根伸夫、小清水漸、菅木志雄らは、いずれも前章で言及した斎藤義重の研究室を卒業している。斎藤が多摩美術大学の教員であり、また入試でも石膏像を使っていなかったことは示唆的である。

*9

1996年には川口現代美術館で『レクイエム -榎倉康二と33人の作家-』という展覧会が開かれた。参加作家は上村豊、日下淳一、関口敦仁、日比野ルミ、福田由紀夫、保科豊巳、丸山常生、宮島達男、川島清、川俣正、菊池俊直、小山穂太郎、近藤昌美、佐川晃司、佐藤時啓、紫牟田和俊、千崎千恵夫、竹田康宏、田中睦治、野村和弘、東慶太郎、池田雅文、大村雄一郎、小林亮介、小屋哲雄、近藤克、佐藤友則、茂井健司、白井美穂、中村一美、長橋秀樹、古井智、和田賢一であり、榎倉の影響力の大きさを物語っている。

*10

『百年史』(2003年)、868頁。

*11

東京芸術大学取手キャンパスは1987年に開設された。

*12

代々木ゼミナール造形学校『美術系大学進学資料』(1984, 1987, 1994年)

*13

記事詳細は以下の通りである。
「漏れていた実技主題」
今春の東京芸大油画専攻の一次試験は三月四、五、六の三日間。定員五十五人に対し、二千百七十六人が受験し、競争率は約四十倍にもなり、国公立大の競争率としては最高だった。
共通一次に続く実技試験は出題されたモチーフを三日間で描きあげるもの。モチーフは石こう像、いすなど毎年変わる。今春はマネキンのそばに白い布をかけたイーゼル(カンバスをかける台)を立てて並べたのが主題だった。
実技の試験は約六十教室を使い、このモチーフの配置作業に試験前日の三月三日午後に約百五十人の同大生、大学院生がアルバイトで動員された。担当教授がアルバイト学生に「問題を漏らさないように」と注意して作業にかかり、夜八時ごろまでかかった。
ところが、試験前日の三日午後五時ごろ、東京都内の美大専門予備校で約二百人の予備校生が、出題内容を知らされるのを待っていた。一、二度外部から予備校講師のところに電話が入り、そのたびにマネキンとイーゼルの位置が動かされた。午後八時ごろ東京芸大で配置作業を手伝っていた予備校講師(同大大学院生)が予備校に戻り、最終的に主題の位置を確認し、出題のねらいまで説明した。予備校生の中にはその場でデッサンする者もいた、という。
前日の配置作業ではマネキンにカツラがかぶせられていたが、試験当日はカツラがはずされていた。これは同大側が事前に漏れていることを想定して変更したようだが、実際には出題内容の大筋は前日、予備校に漏れていた。
(中略)
この予備校の東京芸大受験生の反応もさまざまだ。「前日にモチーフを知ったことはかえって心苦しかった。事前に知り、むしろ硬くなった」という受験生。「前日に知り、その主題が頭にこびりつき、眠れなかった」という声もあり、事前に出題内容を知ったからうまく描けたというのは少数意見だった。
(中略)
東京芸大は過去、試験のたびに当日、石こう像を急に裏返したり、モチーフの配置を変えたりしている。配置作業を手伝うアルバイト学生を通じて出題内容が漏れているとの疑いを前提にしての配置換えだ。大学の外から望遠鏡でモチーフを盗み見する受験生もいる。清家学部長は「出題者と受験生のばかし合いみたいなことが続いている。これではいけないので、芸術家のタマゴを選ぶという芸大の試験のあり方という中で実技試験を再検討したい」という。
東京芸大実技試験の出題内容が漏れているのはなにも最近のことだけでないらしい。美術専門予備校生の間では、事前に出題内容を知るかどうかが関心の的。年々美大志望者が増えており、東京芸大合格率を目標にする美術専門予備校の過当競争がモチーフ漏えいにつながっているようだ。
清家東京芸大美術学部長の話
大学は厳戒態勢をとって漏えいを防止しているが、これは試験の公正さを保つためだ。事前に出題内容を知っても成績に関係ないというので漏らすとしたら、試験の性格をはき違えている。ただ、大勢のアルバイトを使ってモチーフの配置作業を手伝わせれば問題が漏れることも予想出来ないわけでもない。三日間で油絵を描かせて適正を見いだせるかという試験本来のあり方を含めて漏えい防止の方法を考え直したい。
(『朝日新聞』1981年4月10日夕刊、15頁。)

*14

すいどーばた美術学院『入学案内』(2003年)、4頁。

*15

新宿美術学院『入学案内』(1998年)、4頁。

*16

インタビューの原文は以下の通り。
木元「造形大(学)は受かりたかったけど、造形大の対策で1日2枚デッサン描かされて、『自分のスタイルを作れ』って一生懸命やるけど、本当に自分のやりたい絵をやっている人っているのかなあって。みんな造形(大学)っぽい絵を訓練しているだけのような気がして。受験だけど絵ってそんなもんなのかなあって。」
筆者「試験前って合わせる?」
木元「すごい合わせる。もう大学の絵にする。その大学の絵にするっていう受験生っぽさがない子は受かってる。」
筆者「なんでみんな合わせちゃうんだろう。」
木元「なんかそういう雰囲気になっちゃってるんですよ。これが。」
(インタビュー:木元正美(仮称)、某私立大学文学部三年)

*17

インタビュー原文は以下の通り。
渡貫「(渡貫の出身予備校に)機密文書があって、この年に絵の評価がごろっと変わるとか、入試のルール、裏ルールが変わるとか。」
筆者「ごろっと変わるってのは先のことを言ってるの?」
渡貫「いやいや、後。でも次の年くらいのことはスパイが多いからわかるわけだよ。」
(中略)
筆者「機密文書ってどういうこと書いてあるの。」
渡貫「生徒には普段言わないんだけど、事細かに過去の受験の流れが書いてある。受験のとる絵の流れと、ルールの流れと。別に過激ではないけど、あんまり生徒は見ない方が良いかなって。」
筆者「試験の流れってあるの?」
渡貫「ぜーんぜん。知らないと受かんないと思う。大手予備校があそこまでやってて、小さな予備校からまぐれで受かることは多分不可能に近いと思う。」
(インタビュー:渡貫健、東京芸術大学油画専攻三年、元予備校講師)

*18

筆者は都内及び東京近郊の6つの予備校に取材を申し込んだが、許可が下りたのは2校のみであり、その他の予備校は「企業秘密だから」「忙しい」など様々の理由で取材を断った。そのうち1校は都合がつかずに断念し、残る1校のみの取材となった。匿名での取材であるため、予備校に関する情報は最小限度にとどめる。

*19

武蔵野美術学院『入学案内』(1999年)、22-25頁。




「つくられる個性:東京芸大と受験産業の美術教育」荒木慎也(2005年7月10日公開)
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